esminのブログ 〜わやだがね〜

3人の息子(専1,中3,小2)の子育てと旦那、家族を中心に、日々思ったことや愚痴、時々本の感想などを気ままに書いています。

死と向き合う〜生き方〜最後の医者は桜を見上げて君を想う〜

こんにちは、えすみんです。

 関東もようやく梅雨明けしました。今年は長かったですね〜。

明けたら明けたで、暑い😵

 

今回はちょっと重いテーマなんですけど、お付き合いいただけたら、嬉しいです。そして、おそらく長文です(^^;;

 

結構昔から死について考えたりしています。

死は、誰にでも平等に来ます。期限の長さに違いはあるけれど。

これは人間に限らず、犬や猫、魚、虫、植物も生を受けたものは、いつかは死にます。

樹齢何千年という木も、きっといつか枯れる時が来ると思います。

この世に生まれた瞬間から、死に向かって歩いているようなものです。

でも、大体の人はそんなに死ぬことは考えないですよね。今の楽しい生活が永遠に続くという感じかなぁ。楽しくない人もいるかもしれないけど。

何か病気になったり、事故に遭ったり、自分がそうなるか、身近な人がそういう状態になると、死が急に目の前に現れる。

だからといって、私自身が病気であったり、身近な人にそういう人がいるわけではありません。もちろん、祖父や祖母は亡くなったりしているので、人の死というものに触れていないわけではありません。

じゃあ、なんで死について考えたのか?と問われると、明確な理由が答えられない(笑)

いろんな本を読んだり、映画を観たり、それこそニュースでも毎日誰かが亡くなっているので、そういうものを見聞きした時に考えているのかもしれません。

 

個人的な意見ですが、寿命は運命だと思っています。

病気や事故など、ある程度もう決められたものなのではないかと。

100歳まで生きるのも、生まれてすぐに亡くなるのも、自然災害に遭遇してしまうのも、その人の運命によって決められている寿命なのだと。でも、それはその人が知っているわけではないから、運命かどうかは証明できるわけではない。

そんなこを言っても、占いとか手相とか、そういうものは全く信じていないので、あまり信憑性はないんですけどね。

運命に逆らっているのは、自殺。自殺するにはかなりのエネルギーがいるかと思うのです。私自身は自殺したいと思ったことはないので、本当にエネルギーがいるかどうかはわからないですけど、自分の人生を無理矢理終わらせるというのは、すごいことですよね。運命に逆らうためのエネルギーなのかなと思ったりしています。

なので、もし私が病気になって、あと何ヶ月しか生きれないですよって言われても、そうなんだって、受け入れると思います。死にたくないと泣き叫ぶとか、なんで自分が?とかそういうことはないと思います。だって遅かれ早かれ、人は死ぬのですから。

そりゃあ、やり残したことはたくさんあります。子どもが成人するのだって、見てないですし、日本の城を全部見に行きたいし、世界のいろんな国に行きたいし、オーロラも見たいし、美味しいものをたくさん食べたいしetc…。

悔いの残る人生だなと思うかもしれないけど、過去を振り返ってやり直したいとは思わないし、その時々の選択は自分にとって間違ってなかったと思うし、だからやり残したことがたくさんあってもそれでも、死を受け入れることができると思います。

なぜなら、それが運命だから。

 

最後の医者は桜を見上げて君を想うから考える

『最後の医者は桜を見上げて君を想う』という小説があります。

私は小説は読んだことがないのですが、LINEマンガで漫画を読みました。コミック化されているようです。映画化の話もあるそうですが、まだ詳しいことは決まっていません。

終末期医療を取り上げています。

末期の患者には、治療を辞めて、残りを好きに生きる方が良いと主張する医者と、例え治療法がなかろうと、末期だろうと、最後の最後まで病気と闘うことを主張する医者。

話の中では、前者の医者を死神と呼び、副院長の命令で、閑職に追いやられています。

あまりに両極端な描写がされていますが、どちらが正しい医者であるか?

どちらも正しい医者であるように思います。

しかし、治療を辞めるのも闘うのも患者ですので、そこには患者の意思が存在していなければなりません。

 

話の中で、ステージ4の癌患者のお爺さんがいて、前者の医者の話を聞き、治療を辞め、退院を希望し、自宅に帰るも、自宅に帰ったら2日で亡くなります。あくまで患者であるお爺さんの意思ですが、お爺さんの家族は医者のせいで死んだんだと病院を責めます。

すごくよくある話ですね。

ここで大事なのは、自宅を希望したのは、患者本人なのに、責められるということ。本人よりも、家族が死を受け入れられないということです。

TVなどで医療関係のドキュメンタリーもよく見るのですが、延命治療を望むのは、本人よりも家族が多いんです。どんな状態であっても、生きていて欲しいと。

 

先日ALS患者に対する嘱託殺人で逮捕された医者がいましたよね。行った行為は確かに良くないのかもしれない。

ALSという病気と向き合った時、果たして本当に責められるのか?とも思います。主治医がもっと患者の思いを汲むことができたらって。

ALSは治療法がありません。かかったら、やがて死を待つのみです。自分で歩けず、手を動かせず、喋れず、ご飯も食べられず、呼吸もできなくなります。その体とは逆に、脳はしっかりしています。意識もあるし、考えることもできます。脳死とは全く逆です。

脳死の場合、臓器提供の意思表示があれば、脳死判定の後、臓器を提供することができます。

しかしこの場合も、家族の同意が必要です。本人の意思があったとしても。

さて、もし自分がALSになったとしたら、彼女のように、早く死にたいと思うんじゃないだろうか。彼女の父親は彼女から死にたいという希望は聞かなかったというけれど、どういう状態でも最後まで生きて欲しいと願う親に、死にたいという気持ちを話せるだろうか。

いずれ死ぬにせよ、最後まで生きていたら、治療費もかかるし、排泄等の世話を家族に負担させてしまうとか、いろいろ考えてしまいます。なにせ、考える脳は動いているのですから。

『最後の医者は桜を見上げて君を想う』の話にもALSになる学生が出てきます。

彼女は医者になりたくて、医学部に合格が決まった矢先に、ALSの診断を受けます。結果として、大学は退学し、家で死ぬまで過ごします。

彼女はALSになり、医者にはなれなかったけど、医者を目指して頑張ってきた人生は無駄ではないと信じて、人工呼吸器を付けずに死ぬ決断をします。

 

ステージ4の癌患者でもうすぐ子どもが産まれる会社員。彼は、可能性が少しでもあるならと過度な治療を続けます。しかし、治療の甲斐なく、子どもが産まれる前に亡くなります。

集中治療室、無菌室に入って、手も握れない夫を案じる妻。

もし治療をせずに、残りの人生を穏やかに過ごしていたら、産まれてくる子どもに会えたかもしれません。あくまで可能性の話で、やはり会えなかったかもしれません。

 

先ほど書いた前者の医者は、治療をすることだけが、病気に勝つことなのか?死とちゃんと向き合い、死に向かうことの方が勝ったと思いませんか?と患者に問います。

医者として、ちょっと言い方がどうかなぁと思うところがありますが、つまりは、どう死ぬかということなのだと思います。

 

どう死ぬかを考える

長々と書いてきましたが、死ぬことを考えるというのは、生きることを考えることだと思っています。

どう死にたいのか。

病死とか事故死か死ぬ方法ではなくて、死ぬまでにどう生きていくのか。

とにかく命さえあれば良いのか。

人工呼吸器がないと息もできない、自分で食べられず、管で直接胃に流し込まれて、排泄も自分ではできない。それでも生きていたいですか?

自分の家族だったとして、そういう状態でも生きていて欲しいですか?

yomidr.yomiuri.co.jp

こちらの記事に出会ったのは、もう5年前ですね。日本の延命治療について、ちょうど自分が考えていた時でした。

自分だったら、やはりそんな延命治療は必要ないし、したくない。家族がどれだけ望んだとしても、私は治療はいらない。

もちろん治る治療は必要ですが…。

尊厳死安楽死という議論がもっとされれば良いのにと思います。

 

終末期でなかったとして、死は怖いですか?

どうして死ぬのが怖いのでしょう??

いずれ人は必ず死にます。

そのことを考えたとき、怖いと思う必要がないのでは?

生まれた時から、死に向かって歩いています。

その道が長いのか短いのか、それはわかりません。

だからこそ、どう生きるのかを考える必要があるんじゃないのかな。

私がたいそう立派なことをしているような言い方ですけど(笑)

立派なことをするとか、世に名を残すとか、人のために何かをするとか、そういう話ではないんです。

 

やりたいことをして、楽しく、生きたいよねってことです。

好き勝手しろというわけではありません。

秩序は必要です。

 

特別に何かをやらなくても、毎日がつづがなく過ごせたら、それはそれで幸せなのかなぁって思います。

仕事をして、家族がいて、美味しいもの食べて、寝る(笑)

子育て中だとなかなか睡眠をしっかり取るのは難しいのだけど、それはそれで充実した生活なんでしょうかね。

 

死や病気に対して、もう少し鈍感になった方が、もっと気楽に生きることができるんじゃないかな。

病気だって、いつでもどこでも誰でもかかるわけだから、かかったらかかったときだし、それで死ぬのであれば、それが運命だったんだっていう割り切りというか、鈍感さがあったら、今のこのコロナの生活ももっと楽しくなるのにと。

今の閉塞感は楽しくないし、終わりも見えない。

正直、ウイルスがこの世から死滅しない限り、ワクチンがあろうがなかろうが、ついて回るし、コロナが収束したら、また違う病気が出てくるだろうし、地震や自然災害もなくならない。

交通事故だってあるし、死はいつでもどこでも誰にでも来るものですから。

いざ死を目の前にしたときに、人生楽しかったなって、思いたいですよね〜。

単純に今の生活は全然楽しくないと思いません?

帰省もできず、友だちにも会えず、飲み会もできない。ネットばかりで、スマホと1番顔を合わせてる。

 

LINEマンガで『最後の医者は桜を見上げて君を想う』という作品を読み、死と向き合うことを改めて考えて、終末期医療のことだけでなく、なんとなくコロナだからこそ考えることもあったり、どう死にたいか、どう生きたいかを考えたりして。

死と向き合うことは、生きることと向き合うことなのではないかなと思った次第。

なんかうまくまとめられなくて、すみません。

 

でも、延命治療や臓器移植など、家族で話し合ってみてはいかかでしょう?

私も両親が話せるうちに、意思を聞いておかないといけないなと思いました。

夫婦間での話し合いもしてみた方がいいですよね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

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