esminのブログ 〜わやだがね〜

3人の息子(専1,中3,小2)の子育てと旦那、家族を中心に、日々思ったことや愚痴、時々本の感想などを気ままに書いています。

もしかしたらと想像することへの弊害

こんにちは、えすみんです。

今回は長文です。

 

世の中のいろいろなニュースを見聞きして、日々考えさせられることが多いですよね。

常日頃から考察することが結構好きで、どちらかというとディベートとかも好きです。論破することが楽しいわけではなくて、いろんな人のいろんな意見を聞いて、自分に落とし込んでいく作業が好きなんです。もちろん中には全く受け入れられない意見もあるのだけど、それはそれでいいかと、そういう考えもあるんだなという感じです。

物事にはいろんな側面があって、いろいろ考え方も違ってくるのが普通だし、自然なことだと思います。

 

長野県のとあるところで、公園が廃止されたニュースを知っていますか?

結構取り上げられていたので、知ってる方が多いのではと思います。

このニュースを知り、コメント欄での意見を読んだり、Twitterでの意見を読んだりしました。

私個人的な意見としては、公園の廃止なんて、もう社会として終わってるなと。

同じような意見の方もいれば、そうでない方もいる。どちらが正しいのかはわかりません。

・子どもの遊び場がなくなる

・子どもの声が騒音って

・子どもの体力低下っていうけど、遊ぶ場所を奪っている

・確かに子どもの声はうるさいから仕方ない

・18年も我慢して、よっぽどだったんだろう

・公園の方が後からできたから、配慮が必要

・送迎に来る親の車が邪魔

・耳が過敏な人もいる

・夜の仕事で、昼間は寝たいのかもしれない

etc...

反対賛成のいろんな意見がありました。

どちらの意見も正当であるように思います。

 

ここで考えたいのは、もしかしたらこうなんじゃない?っていう相手の立場を考える思考のこと。

相手の立場や相手の気持ちになって考えることを日本人は特に良しとしているし、自分勝手な考えを嫌います。

それはそれで大事なことではあるんだけど、最近はその傾向がひどいというか、根本的なところでどうなのか?と思うんですよね。

 

要するに、例えばこの公園の件については、子どもの声を騒音とし、公園を廃止するということそのものがどうなのか?ということ。

クレーム言った人が夜の仕事だとか、先に住んでたとか、18年我慢したとか、親の送迎の車がひどいとか、そんな個々のことは考慮しない。

子どもの声を騒音と認定して、公園を廃止するというそのものは、いいの?悪いの?ありなの?なしなの?

社会として、それでいいのか?どうなのか?

やっぱり、子どもの声を騒音として、公園を廃止するということがあったらダメだと思うんですよねぇ。

 

他の話で言うと、車椅子の方が、優先エレベーターを待っているが、満員で来るから何基も見送って、エレベーターに乗るまでにすごく時間がかかったという話。

あくまで優先ではあるけど、ベビーカーでもなく、怪我をしているわけでもなく、お年寄りでもない人が優先エレベーターを使って、本来使うべき人が使えないというのはいかがなものか?

もし自分が乗っていて、車椅子の方が待っていたら、おりますよ(そもそもエレベーターを極力使わないのだけど)。

車椅子の方が乗れないことに対して、世の中には見た目にわからない障害の人もいるし、エレベーターに乗れないからと言って、文句をいうのはどうだろう?とか、車椅子だからって譲ってもらえると思うなとか、そういう意見が出るわけですよ。譲らなかった側の事情を想像して、意見をいうわけですよね。

電車の優先席も同じような話が多々あるんですけどね。

車椅子の方や妊婦の方が譲ってもらえなかったことを言うと、譲らなかった側の事情をここでも振りかざすわけです。

目に見えない障害がとか、体調が悪かったとか、徹夜で仕事して疲れていたとかね。

もしかしたら、こうなのでは?

もしかしたらこういう事情があったのかも?

もしかしたらと相手を思いやるのは大事なことだと思うし、世の中にはいろんな障害の方がいるから、確かに見た目にわからない人もいることも十分理解している。

 

けど!

 

車椅子やベビーカー、妊婦の方に譲らないことそのものを考えるべき。

いいの?悪いの?

ありなの?なしなの?

もちろん、なしでしょう。やっぱり譲るべきだと私は思う。

 

そもそもそんな事情を抱えた人とそんなに遭遇しますかね?

私自身が妊娠中に電車通勤をしていた時、産休直前まで毎日電車に乗りましたけど、席を譲っくれた方はわずかに3名ですよ(立ってても平気でしたけども)。

なんなら、逆に気分の悪そうな若い女性に席を譲りましたよ。

あの毎日の電車の中の席を譲らなかった人たちが全員目に見えない障害を抱えているとでも?

 

いろんな方がいて、いろんな考えの人がいて、それを理解するのは大切だと思う。

もしかしたら?と相手のことを考えるのもいいことだと思うけど、

今目の前で困っている車椅子の方がいて、それを無視して、譲らなかった側のことを思いやることが果たして本当に必要なの?

今、目の前にいる人のことをまず理解するべきでは?

 

公園廃止はね、またちょっと目線が違うんだけど、

共通してるのは、本当にそれでいいの?

そういう社会を望んでるの?

それが理想なの?

ってこと。

確かに子どもがたくさんいて遊んでたらうるさいかもしれない。

最近では学校の運動会ですら、うるさいと苦情がくる。

そういう社会をみんなが望んでいるの?

 

多様性が問われて、マイノリティーを排除してはいけないという考えがだいぶ根付いてきて、だからこそ相手のことを思いやる、相手の事情を知るということをする。

もちろん私もマイノリティーを排除する気はないし、世の中の多様性を受け入れていきたいと思っているけど、やっぱり子どもの声を騒音としたり、譲らなかったりするのは、根本的に違うと思う。

 

少子化なのでね、子どもと高齢者を比べたら、間違いなく子どもの方がマイノリティーですよね。しかもその声はなかなか届かない。大人のいいようにされる。

マイノリティーを大事にするのであれば、子どもも大事にしないと。

 

あとそもそも、優先席や優先エレベーターなんて、恥ずかしいですよね。

電車やバスに乗るたびに、子連れは肩身の狭い思いをして、ファミリー専用車を作ったりとか、本当に情けないというか、恥ずかしい。

ワールドカップのサポーターがゴミを拾ってキレイにしてるのがニュースになり、世界的にも賞賛されましたけど、日本人の民度はその程度って思う。ゴミを拾うことはいいことだけど。

民度が低すぎ

優先席がないと、譲れない。実際にはあっても譲らない。

優先エレベーターを作らないと、車椅子の方がエレベーターに乗れない。実際にはあってもなかなか乗れない。

ファミリー専用車に子連れを閉じ込めないと、電車にも乗れない。

なんか恥ずかしいですよね。

 

外国の方が全然臆せずに、どうぞ〜なんてやってる姿を見ると、カッコいいなぁって思っちゃいます。

日本人はそういうの恥ずかしいとか、断られたらどうしようとかいって、できないんですよね。

こういうのは恥ずかしいと思うくせに、子どもの声は騒音だとか、電車のベビーカーは邪魔だとか、そういうことは平気で言えるんですよ。なんでこういうことは恥ずかしげもなく言えちゃうんですかね。

 

子どもの声じゃなくて、注意しない親が問題っていう声もありますが、その親を育てた世代がクレームを言ってる世代ではないですかね?

注意しない親がポンと出てくるわけじゃない。それを育てた親がまた存在してて、それを育てた社会が存在するわけで、繋がってるんですよねー。

前にこういうことも書きました↓

esmin.hatenablog.com

 

なんかまとまらなくなった感じだけども😅

つまり、相手のことを思いやるということによって、本来そうすべきということも打ち消されてしまうという弊害が起きてるということ。

特に、子育て関係についてはそういうことが多いのかなっていう気がしています。

子育てに関しては、それが少子化に繋がっているようにも思う。

少子化は経済的ない側面も多いけど、社会全体が子どもを受け入れることに寛容でない部分も大きいかなと思う。

子どもはいいけど親がっていう人もいますが、子どもを育てる親に対して、それほどに厳しい社会で、誰が自分も産んで育ててみたいって思うでしょうか。自分もまた非難されるかもしれないという不安や恐怖がある状況で、子育てしたいなんて思えない。

 

親が何かしらの不安やストレスで問題を抱えて、結果虐待であったり、心中であったり、鬱になったりとしたら、そういう時になって、誰か寄り添ってあげられたらとか、行政で何かできることはなかったのかと、救う方法があったのではないかとか言うんですよね。

現実として、ほとんどの人が寄り添ってくれていない社会だというのに。

相手のことを思いやったり、多様性を受け入れたり、それが大事だというけれど、公園で遊ぶ子どもや子どもを児童館に通わせる親のことには寄り添わず、そこにクレームを言う人に寄り添う。

 

共働きが多くなり、家に親がいないから、子どもを児童館に預ける。子どもは外で遊ぶのが好きですよ。公園だろうとグランドであろうと、河原であろうとね。児童館という建物の中で、毎日毎日何十人という子どもが遊べるわけがない。

で、長野という土地柄を想像するに、車通勤の人が多いんじゃないですかね。仕事が終わって、児童館に子どもを迎えに行くわけですよ。その時の送迎の車が邪魔になってしまうわけですよね。

その辺は、どこかに駐車場を借りるとかそういう手段があっても良かったように思いますけど、そうはならなかった。

共働きの親は夕方から怒涛の時間。本当に時間との勝負。いちいち家に帰って自転車に乗り換えるとか無理だし、お迎えに行って、帰って、洗濯物取り込んで、夕飯作って、食べさせて、お風呂に入って、宿題とかも見て、なんとかして寝かせる。自分も寝落ちしちゃったりするけど、また起きて、まだやってない洗い物とか洗濯物畳んだりする。もしかしたら、翌朝の食事の仕込みもするかもしれない。家に帰ったって、子どもなんてうるさいしね。家でも外でも子どもはうるさいよ。

児童館に預けずに専業主婦になれたらどんなにいいか、経済的にはそれもできない。

とかね。そういう側を想像することはできないんですよね。

 

この長野の公園については、廃止になり、お金がかけられなくなるっていうことだし、今まで児童館の方や保護者で草むしりとかして整備してきたけど、それもなくなると思うんで、草ぼうぼうの荒れた場所になるんでしょうね。

そうなると、どこからか不法投棄する輩が出てきたり、野良狸とかハクビシンとかが住み着いたりするんですよ。

そうなったら、きっとまたクレームをいくんでしょうねぇ。何とかしてくださいって。

その頃には今回クレームを言った方は亡くなってるのかもしれないですね。自分が生きている時だけ快適であれば、きっとそれでいいんでしょうねぇ。

 

もしかしたらって、相手を思いやったり、相手の立場を想像したり、本当に大切なことだと思う。なんかねー、今の世の中はそれが逆に生きづらくしているような気になってしまうんだよなぁ。

相手を思いやることが寛容さに繋がればいいのですけどね。

そうでないところに弊害があると思うんですよねー。

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