こんにちは、えすみんです。
先日次男の通う小学校の授業参観があり、その後懇談会に参加してきました。
もう6年なので、授業参観に来る親も少なくなってますが、まあ逆に最後だしという気持ちで行ってきました。
授業参観は可もなく不可もなくという感じ。
今回のメインは懇談会の話です。
あらかじめ懇談会の内容が知らされていたわけではないので、懇談会に参加したくて行ったわけでもありませんが、今回の懇談会では、新学習指導要領に基づく評価の仕方についての説明がありました。
今年度4月から新学習指導要領に基づいた指導方法と評価になるそうです。
文部科学省で発表されている、新学習指導要領の方向性はこちら↓
新学習指導要領で育成すべき柱は、こちら↓
これらに基づいて、どのような評価方法になるか、先生が模造紙に書いて、説明してくれました。
例に上がっていたのは、社会です。
「聖徳太子は何をやったのか?何を目指していたのか?」
摂政政治、冠位12階、遣隋使とかいろいろあり、目指すべきところは、天皇をたてて、世の中をまとめたいと。その時代の流れの中で、最終的に聖武天皇の時代に、ようやく天皇による政治が実現して、世の中がまとまったよーって話で、
聖徳太子が目指していたものが、聖武天皇の時に確立されたっていうところまでを理解して、初めて評価に値するという話。
授業での発言の多さ、ノートをきちんと作成している、課題を出している、テストで良い点を取るというようなことでは、今までと同じ評価はできないと。
理解していることをどう使うか、何ができるかっていう上記にある柱に基づいた評価方法ということ。
先生の話をものすごくざっくりとまとめたらこんな感じになったのですが、どう思います?
言わんとすることはわからないわけでもないけれど、私の最初の感想は、ここまでの理解が小学生に必要なの?です。
ある事柄に関して、疑問や問題を出す→予想する→調べる→結果を出し、理解するという言わば、夏休みの自由研究のようなものを全ての授業においてやるというような印象です。
考える力とかそういうのは、確かに身につくかもしれないけれど、全部が全部それなの無理だし、興味のないものに対して、そこまで小学生ができるのか?って。
ある程度の知識、最低限の知識を小学生で身につけて、上の段階で徐々により深い理解をしていくのが本来ある流れでは?
子どもによっては、早い段階で興味を持って、自由研究などで調べていくのも良いとは思うけど、全ての子どもたちに強いて、評価するっていうのは、いかがなものか。
さらに、体育についても説明がありました。
ただ足が速い、体操がうまい、といった運動神経の良さで判断はせず、どうやったらより良くなるかとか、うまくできるにはどうしたらいいかと言った考察も必要になるとのこと。
は?
何を言ってるの?
運動神経のいい、悪いが存在するのは事実で、なぜその運動神経の良いというところを伸ばそうとしないのだろうか。
体育に限らず、音楽や図工にも言えることで、やっぱり個性があって、ピアノが上手い子はうまいし、足の速い子は速いし、絵の上手な子、工作の上手な子、それぞれいて当たり前だし、それはそれだけで評価しても良いと思う。
勉強ができるっていうのも、個性の1つと言える。
運動会の徒競走で順位を付けたらかわいそうとか言うのとなんら変わらない。
そこでしか輝けない子もいるんだよ、世の中には。だからプロがいるのだし。
確かに、足が遅いという理由で評価が下がるのはどうかと思うけど、運動神経が悪いから諦めるんじゃなくて、できないなりにどうやるかが評価されるべき。
昔、私が子どもの頃はクラスの中で、5は何人、4は何人と決められていた。だから理不尽な評価もあったと思うけど、今はそうではない。もう少し子どもそれぞれにあった評価ができてもいいように思う。
結局自分から意欲的に取り組んで、考えて、発表できてっていう、いわゆる出来の良い子ばかりが評価される気がする。
実はしっかり意見を持っているけど、発表するのが苦手であったり、うまく話せない子や、人の意見はしっかり聞けて理解できるけど、自分で発想するのが苦手な子や、それこそ体育が上手で活発でリーダーシップはあるけど、じっと考えたりすることが苦手な子、ただただ真面目でコツコツこなすけど、そのどれもが苦手な子、そういう子どもの個性というか、そう言ったものが全く評価されないような気がする。
理解を図るためのテストがあり、それが詰め込みだと言われてきて、考える力が足りない、社会に出てから、やっていけないっていうようなことから、今回の改訂にななったのかなとは思うだけど、結局テストは存在するし、大学入試では記述式が増えると言われているが、それこそそういう記述の得意不得意があるわけで、誰しもが立派な読書感想文が書けないように、記述式の解答だって、書ける人と書けない人がいる。
そもそも記述式の解答がちゃんと書けたからって、社会に出てからやっていけるかどうかは別の話で、結局記述のテクニックが身についた子が良い評価を受ける。
今でさえ、就職活動の際に、面接のための塾があったりする。
大学のAO入試でも、そのための塾が存在する。
結局、要領良くやれる子、加えてお金に余裕がある子が比較的うまくいくということ。全てにおいてではないけれど、経済格差は確実にある。
経済格差があっても、差が出ないように学校で教えるというのは、義務教育までだと思うけれど、新学習指導要領になっても、どうなんだろう?という疑問しかない。
そもそも資格試験や英検やら漢検やら、ほとんどの試験が点数で評価されて、合否が分かれるし、中学受験や高校受験も点数に左右されるというのに、学校教育だけがそこから切り離されるというのはどうなんだ?
その他の学習内容を減らすことなく、英語とプログラミングと道徳が必須となり、増える。
英語は国際社会において必要なのはわかるけれど、プログラミングってどうなん?そんなに必要?小学生からやる必要が本当にあるのか?
英語は自分たちが習ったような英語ではなくて、ネイティブの教師に生活していくための英語を教えてほしいなぁ。2年くらい前から、次男の小学校にもネイティブの教師が配属されているから、そういうのやってくれてると信じたい。
This is a pen.とかはいらない(笑)
アクティブラーニングというのがあるけれど、長男の通う中学、高校ではアクティブラーニングを取り入れている。すごく良いと思うのだが、いかんせん長男の出来が悪すぎて、どれほどの効果があるのか、全くわからない(笑)
個人的には、ディベートのようなものや模擬裁判のような形式で、子どもたちが主体的に話し合うというのが良いのではないかなぁと思ったり。
道徳的内容でも良いし、社会問題でも良いし、もっとくだらない内容でも良いと思う。たけのこの里vsきのこの山みたいなね(笑)
ディベートや裁判には勝ち負けが存在するけど、勝った方が評価されるというわけでなくてね。誰でも一度は発言するというルールにするとかね。同じ人が話してばかりではダメだし。
自分が小学校の5,6年は同じ担任の先生だったのだけど、クラスで話し合うべき議題っていうのを考えたり、生徒自身が見つけたりして、毎週会議をした。議長、副議長、書記をグループ単位で決めて、持ち回りにして、必ず一回はどれかの役をやる。2回続けて同じ役はやらない。先生は一切口を出さないクラス会議っていうのをやった。なかなか発言しない子もいたけど、そういうのも子どもたちだけで考えて、うまくやっていたような記憶がある。
まとまりがなくなってきたけれども、結局のところ、子どもたちがきちんと評価されるとは言い難いと。
正直なところ、自分の小学校の学習内容や先生たちの指導方法が良かった印象があるので、今はどうなんだろう?と思う。
個性も尊重されていて、普段問題があっても輝ける場所を用意してくれていた気がする。ダメなことはダメとかなり強く叱られたりもした。今なら体罰と言われかねないけど。
先生たちの負担も大きくなっているとは思うけど、質が落ちている感は否めない。ある程度成績の優秀な人が先生になっている印象であるけど、できない子の気持ちであるとか、いじめであるとか、そういうに対処できるような気がしない。初めての挫折が小学校の現場で、鬱になって休職や退職という先生が多すぎる。
現場の先生もさることながら、その上の教育委員会等も子どものことなど知らないようなキャリア官僚ばかりで、事なかれ主義な気がするし。
それを言ったら、文部科学省にいる人たちもキャリア官僚で、机上の空論ばかりな感じ。
全てをうまく評価する方法なんて、存在しないと思っているけど、振り回されている子どもたちは大変だ。
自分の子どもがちゃんと評価されているかもわからないし、知識としてきちんと身についているかどうかも疑わしくなってくる。
子どもの個性が埋もれてしまいそうな気もする。
学習指導要領って、幼稚園も対象であったことに、今回初めて知った。幼稚園の統轄が文部科学省なのだから、今まで気づかなかった自分にも驚くけど、そうなると、保育園育ちの子どもたちは、小学校に入った時点で、学習に対する差があるってことよね。
保育園しか選択肢のない我が家の子どもたち。ちょっとかわいそうな気もするけど、上2人を見てても、それほど学習に対する問題があったわけではないから、そんなに気にしなくてもいいのかな。
学習指導要領1つにしても、いろんな問題がありますね。